2016年2月4日木曜日

一つの飴

朝の支度がひと段落すると、
息子たちが「あめ食べたい!」と言い出した。
(あの飴のことだな。)
このあいだ開封した、カラフルな小粒の飴がいくつか入った袋のことを言っているな、とわかった。

「いいよー」
と飴の袋を手に取ると、、、おっと。一粒しか残っていない。
2人とも「あめーあめー」と欲しがっている。
さてどうしたものか。
飴は小粒で半分こもできそうにない。
代わりになるような飴や、他の小さなお菓子は今うちにない。
いつもの私なら、ケンカになるのを避けるために、"もう空っぽだった"と誤魔化すか、"一個しかないから今はやめておいて、幼稚園に行っている間にママが買っておくから帰ってきてから一緒に食べようね"、とか、そういうふうにしてこの事態を収拾させていたと思う。

でも、ふと、この問題を子どもたちに考えさせてみたいと思って
「どうする?」と言って一粒の飴玉をつまみ、2人の頭上に見せてみた。

長男「しょうたくんが食べたい!」
次男「けーごたぃたい!(惠梧が食べたい)」
長男「しょうたくんしょうたくん!!」
次男「◎×▽⚫︎☆◆×○!!!……」
2人  (わーわーギャーギャー)

次男はすでに半べそ。
すると、長男がサッと飴を取りパクッと口に入れた。
(あっ)
と思ったが…
黙って成り行きに任せてみた。

すると、案の定、次男は大泣き。
いつもはここで「あーあ。」とか言ってしまうのだが、それじゃ「悪いのは君だ」と言っていることになってしまう気がしたので、
長男を責める口調にならないように注意しながら、極力フラットな心で、

私「惠梧くん、泣いちゃってるよ。」
と客観的な状況を言ってみる。
長男「だってしょうたくんが食べたかったの!!!しょうたくんの方が手が届いたから食べられたってこと!!!」
「だって、だって、、!!!」
自分を守ろうと、必死で言い訳を考えている長男。

「そうか。食べたかったんだ」とだけ言って、
"おいで。"と私は次男をヨシヨシしながら「惠梧は食べられなくて残念だったね」となだめる。

「もーーう!!!」とか何とか発狂して、長男はオモチャの方へ行ってしまった。

後ろめたいのだろう、
その後もしばらく1人でブツブツと言い訳を並べていた。

本人にその気がないのに"こういうときはごめんねって言いなさい"と教えるのは、避けたかった。
私のような"いい子ちゃん風"に育って欲しくない。
答えは自分で見つけるのだ。

それはたぶん、一朝一夕で育つはずもなく、この一件だけみると、実に中途半端で、"これでよかったのかなぁ"と宙ぶらりんな感じがしたけど、
1人になってブツブツ言い訳をしながら、長男なりに罪の意識と戦っていたのだろうし、
言い訳ができるのも、想像力や表現力が育ってきたという証だろうし、
こんな飴玉一つの問題で、
被害者の悲しみとか
加害者の苦しみとか、
自分で味わっていくのがきっと、子供にとって大切なことなんじゃないかな。とか私も考えたりした。
私の胸の中で泣いていた次男も、そのうち興味が他に逸れて、ケロっとして遊び始めた。

その日の夕方。
帰宅したときに、テーブルの上に、次男がおやつで食べ残した焼き芋があった。
(出しっぱなしだった私のズボラさは、ここではさておき。)
長男「ずるい!食べたい!」
次男(焼き芋を取り、必死で首を振る)
私「これは、惠梧くんが取っておいた惠梧くんのおやつだね。將太はかっぱえびせんがあるじゃん。」
長男「やだ!しょうたくんも焼き芋食べたい!」
私「じゃあかっぱえびせんと交換してって言ってみる?それとも2人で一緒に半分こずつする?」
長男「やーだ!!両方ともしょうたくん食べる!!!」
次男(焼き芋を大慌てで食べ始める)
長男「あーーー!!……(泣く)」
(長男、しばらく泣く。次男、長男をじっと見る)

すると、次男が長男に焼き芋を差し出した。
何も言わず、次男の持つ芋にパクつく長男。
("ありがとう、は?"と言いたい気持ちをぐっと抑える私。)
私「惠梧は將太のことが大好きなんだね」と言ってみる。
次男「うん。」
長男はニッコリし、それからお皿を2つ取ってきた。
長男「惠梧くん、半分こしよう」
と、かっぱえびせんを自ら分けた。

"ほーー。"  私は感心した。
やっぱり、善悪を押し付けず、見守ってみるもんだなぁ。
つい、手出し口出しをしたくなってしまうけれど、お互いが大好きという前提があれば、"こうあるべき"という押し付けの善悪じゃなく、思いやりの心が育っていくのかなぁ。
お互いが大好きという前提を育むには、一緒によく遊ぶに尽きるのだろう。

ママカフェに参加して、
知覚が広がって、
考え方の軸が通って、
ようやく自分の中に落とし込むことができ始めている、と実感できることが増えてきた。
それに、最近のいろんな学びから、私自身が、"こうあるべき"という通念とか観念から解放されて、
自分の頭で考えて、
"人は人。自分は自分。これでいいんだ"って思えるようになってきた。
これまで約30年間、
外にある正解ばかり求めてきた。
人が○(マル)とすることが正解で、人が×(バツ)とすることは不正解。そう信じてきた。
だから、自己肯定感だってぐらぐらで、
褒められれば自信が湧いて、
否定されれば落ち込んで。
基準はいつも、外にあった。
30年かかったけど、ようやく、自分の軸に近づいている感覚が持てて、これからそれが他人からの評価に揺るがない本当の意味での自己肯定感につながればいいな。と願っている。
ちなみに、いつも等身大で、ありのままの自分に肯定感を持ち、飄々と生きる夫の姿には改めて感心する。(って最近この、夫オチ多いな^^;)
今まで、保守的だ、もっとアグレッシブにいろいろ挑戦すればいいのに、とか押し付けがましく思ったりしてごめん。

これからも、家族それぞれのペースを尊重していきたい。